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【海苔の歴史】板海苔の誕生!

『日本人の知らない巻き寿司の歴史』 3回めの今回は前回に引き続き、海苔の歴史についてです。(第1回) (第2回)

今私たちが親しんで食べている海苔の形、「板海苔」のはじまりは、江戸時代に花開きました。

江戸名物 浅草海苔の誕生、海苔巻きの登場、海苔養殖の始まりなど、現在の海苔業界の基盤が築かれたのです。徳川家康が未開拓の地に江戸に幕府を開き、魚好きの家康が、品川の漁民に日々将軍家に御膳魚を献上するように命じ、これによって漁の技術が向上します。

漁民は、悪天候や不漁に備え、いつも鮮魚が差し出せるように沖合にいけすを設けました。枝竹で造った柵囲いだったのですが、不思議なことにこの柵に海苔が好んで繁茂するのを発見!

漁民は次々に内海にヒビ(柵)を立てて品川・大森を中心とする東京湾で本格的な海苔の養殖を始めました。これが貞享(じょうきょう)元年(1684年)のことです。

◯竹ヒビとは

      

                                                    画像 :  大森 海苔のふるさと館より 


幕府は海苔を貴重な財源とし、市場で売るようになり、養殖がはじまると、数十倍の海苔が市場に出回ることになります。この製法から工夫を重ねて、大森でとれた海苔が加工され、おなじみ江戸名物 「浅草海苔」が誕生します。

享保2年(1717年)浅草の漁師 与平はひび(柵)を立てて作る養殖海苔方法を創案。素干しだった製法も型ですいて板状になります。海苔の加工技術は、もともと「浅草和紙」の製紙技術を用いました。

海苔は浅草を中心に普及し、浅草海苔と呼ばれ大人気の商品になったそうです。そしてその養殖技術は各地に伝えられ、やがて全国的に広がっていったのです。また、海苔で有名な山本山は、創業は元禄3年(1690年)。

初代・山本嘉兵衛が京都宇治から江戸日本橋に移り、当初はお茶の販売をメインにおこなっていました。なお、六代嘉兵衛徳翁は、宇治郷小倉の木下家において玉露を発明。「嘉兵衛」を襲名し、海苔を初めて販売したのが山本山の九代目だそうです。


日本人と寿司の
近くて遠い関係

フジヤマ、キモノ、スシ。これらは海外から見た日本文化のイメージだが、私は富士山に登ったことも、着物を着たこともないし、寿司も握れない。

海外へ行くと日本人なんだから寿司を握ってとリクエストされることがある。寿司は家庭料理ではないんだよ。と断るのは簡単だがなんとも居心地が悪い。そんな私も日本人。

ホームパーティーや、営業・社交ツールとしての活用から、自宅で体験レッスンを開いたり、寿司の技術があれば世界が広がります。

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